最近グーグルなどでも活用されている様に
多くの企業や個人でも
マインドフルネスが注目されています。
個人的には
それは宗教の中にずっとあった仕組みなんだと思っていますが
こうして科学的にも有効性が認められるという事で
四大宗教がなぜ2千年近くも絶えず人々に受け入れられてきたのかという事の訳を
ひとつ示しているのかもしれません。
そしてそれはジーでも同じです。
単なるコレクションの延長や
希少性への憧れを埋める欲求に利用する方はまったくしないとは思いますが
通常、
例えば1日に何度か
ジーを迎えた人はジーに触れます。
心の眼を閉じ
時をとめる。
そして、その瞬間、
スイッチがオフ、またはオンされるわけです。
つまりそのことこそ、
科学的にも有効と認められた
マインドフルネスその行為そのものだと思います。
もちろん
それはジーだけではなく
当店で言えば仏教に関わるものすべてがそれにあたります。
そして、こういう現代人には非常にわかりやすい視点を通して、
こうした思想に生きたものを迎えることの意味と
その有効性を
あらためて伝えていくのも
我々関わるものの大事な役目なのかもしれません。
どうも世間を見ていますと、
あまりにも「モノ」が先行しすぎていて、
買ってる方はもちろん売ってる方までも
そこに「美学」や「主義」という
姿がまったく透けて見えてきません。
本来、
こうした宗教にまつわる、
もしくは民族芸術にまつわる品を扱うというのは
そのもの自体にとらわれるのではなく、
その生まれた理由に着目し
守られてきたことへの意味を追求し
そして過去の人々への敬意を表し
心重ねる行為なくして
本当の意味で
そのものを「観る」ということにはならないはずです。
そしてその行為があって
はじめて、
そのものの評価がくだるわけです。
その価値は
外側にだけついているわけではありません。
しかし、
どうでしょう・・
現状は
外側に気持ちが向かい過ぎ、
自身が先行し過ぎ、
それを守ってきた多くの人々の想いが
どこかへ行ってしまっている気がしてなりません。
はたして・・
これが本当に文化芸術思想に触れるという行為なのでしょうか・・・
どうもそれはデザイナーの想いも思想にも心をよせず
ステイタスシンボルとしてただブランドを持つことだけに終始し追いかけている
どこかの人達と同じ気がします。
こういうことを書きますと
多くのお客様は敬遠します。
うるさいとか
面倒くさいとか・・
でも本当はそうではないはずです。
真実を言われているのが
つらいんですね。
自身がそれに向かっていけていないから・・・・
でもね・・・
人生は一度しかありません。
そして正しい道も
それほどいくつもありません。
ならば、
険しくとも
傷つこうとも
そして・・
たとえ・・
多くを失ったとしても・・・
道の真ん中を歩むのが
もっとも潔いし
心地もいいんじゃないのかな・・・
そして
そのことこそ、
仏の世界に生きたものを迎えるということなのだと思います。
もう・・
後戻りができない程
染まってしまった方・・・
遅くはないんですよ・・
気づいたら、
そこがスタートだし
スタートしたら
全てが変わっていくんです。
過去は過去。
過ぎてしまったものは
それは「無し」でいいじゃない。
大事なことは
この瞬間からの自分です。
変わろうとする勇気をもつことです。
たまに「骨董市に出店されないのですか」というお声をいただきます。
当店がほぼ20年近く骨董市に一度たりとも出なかった大きな理由があります。
当店にお越しのお客様はご存知かもしれませんが当店には湿度計がいくつか設置されています。
博物館美術館ではほぼ常識ですが、
これは同じ品物を扱う骨董の世界でも同じです。
ただし、一部・・ですが・・・
骨董市の場合、下手をしますと屋外なんてことがあります。
当店としては論外ですが・・
紫外線や高湿な環境は当然ながら美術品にとって致命傷になる場合がございます。
また、週末毎にに開催なんて形も多いと思いますが、
その度に貴重な品物を出し入れし、移動するわけです。
例えばルーブルの品が日本に来るとき、
寺院から仏像や仏画が博物館に移動するとき、
どれだけのお金と労力をかけるかみなさんはご存じでしょうか。
本来ならやはりなるべく移動せず、
そのままの状態を維持するのがベストな訳です。
ですから、当店が骨董市に出ないことの一番の理由はそこにあります。
ただ、骨董市の楽しさというのは誰よりもわかっているつもりでもありますので、
そこを否定するわけでもありません。
確かに楽しいですよね。
僕も京都の弘法市や北野天満宮の市には数え切れぬ程足を運んでします。
買いはしませんけどね・・(笑)
ですから、そのあたりはうまく使い分けをされるのが良いと思います。
本当にこれだと思うものは骨董市にはまずありませんので、
そういう品は知識も合わせて授けてくれるお店で買われたほうがいいでしょうし、
まぁ・・ちょいと遊ぶ程度ということでしたら、
骨董市でもいいかもしれません。
この仕事をしていて
お客様との関係で一番難しい部分が
そのお客様が当店に来られるまでお持ちだった考え方や想いへのアプローチです。
特にご遠方からのお客様が当店はとても多いこともあり、
例えば九州のお客様であれば、
当然九州にある地元のお店さんがこの世界への入り口になります。
お客様からしてみれば
地元のお店さんのほうが当然なじみもございますし、
そこで得られた知識が根底にございます。
しかし、我々この道に生きるプロとしてはそれが
必ずしも正しい知識、見方、本筋ではないと思った時、
それをどうしても伝えねばなりません。
やんわりそこを通らず過ごせればそれでいいのかもしれませんが、
それは当店の品物をご紹介、ご提供するにあたって
どうしても避けては通れないところ。
例えばお持ちの品がコピーであったり筋違いのものであった場合、
それと同じラインに当店の品をのせるのは良しとしがたいところ。
コピーのとなりに本物が並ぶ・・・
これでは本物は死んでしまいます。
そういうことですから・・
当然事実を伝えることになるわけですが・・
そこで先に申しましたお客様が今まで抱いてきた想いを
ある種否定することになる場面が出てくる。
ここでまず間違いなくほとんどの方が
立ち止まってしまうんですね。
「いや・・そんなことはない・・」
「そんなはずはない・・」
「お前の方が間違ってる・・」
人の心とは当然そういうものですから・・
それはとてもよくわかります・・
けれども我々はこの世界でみなさんとは比較にならないほどの
時間とお金と経験を重ね、
そして社会的責任もともなってたどり着いているんです。
みなさんが思ってきたことは全部通り過ぎてここに立っているんです。
ですからお心を察して
事実を伝えず耳障りのいいところだけをお伝えして
すませることがはたして本当の意味で良いことなのかとも思うわけです。
ここをご覧のお客様で
当店に通われているお客様には心当たりのあるかたも多いと思いますが・・(笑)
最初は決していい印象をお持ちにならなかった方も多いのではないでしょうか。
世というのは・・商売だけではなくどの場面においても
自身を守る為、
そして関係性を乱さぬために・・
思っていないことをその場その場で使い分けをしてしまいます。
もちろんそれが必要な時もありますけどね・・・
けれども基本的に当店はそれはしません。
常連様はお分かりだと思いますが・・・
それは僕の生き方ではないし、
それをしてしまったら当店の存在する意味はありません。
たとえその場では嫌われても、
後で・・
そしていつか・・
「あいつの言っていたことはやっぱり本当だったな・・」
そう思ってもらえると信じて敢えて歪んだ配慮はしません。
僕にとりましてはお客様は他人ではあるのかもしれません。
けれども家族に伝えるのと同じ温度でお話しているつもりです。
家族であればあなたに決して耳触りのいいことは言いませんよね・・・
それは本当にあなたのことを思っているからです。
嫌われてもあなたを想い、
そして絶対的な信頼関係が根底にあるからです。
僕とお客様には残念ながらその絶対的な信頼関係は
初めてお会いする方とは当然築けていません。
ですから・・
そこがない分、異なった指摘が大きな障害になる。
もちろんそこはすべてわかっています。
そこまで鈍感じゃないですよ・・(笑)
ただ・・もう二度と会えないかもしれませんし・・(笑)
おそらく本当の意味でお客様に真実を伝えてくれる店は日本にはほぼないと思っています。
そして時間もありませんのであまりまわりくどいこともできません。
そして何より・・
自分の店を長生きさせるための選択は僕にはないんです。
たとえ明日この店を失っても・・
今日、事実を淡々と伝えること。
これが僕の選んだ道なんです。
それを変えてまで・・
長続きさせようなんて・・
そんな選択は僕にはありません。
以前・・
あの地震で被災されたお客様からこんな言葉いただきました。
「今を生きるということがいかに大事かということを身をもって学んだと・・・」
勇猛精進
僕の好きな言葉です。
よくブログでネットでは視覚に気持ちが行き過ぎて
本来人間がもつその他の感覚が鈍り、
本質を見落とすことがあります・・
というお話をしています。
骨董品とは何に値がついているのでしょうか。
その物自体、例えば外側から客観的に測ることのできる技法や容姿だけではありません。
むしろ、そのものが生きた背景にこそ値がついているといっていいのではないかと思います。
まったく同じ姿、時代の焼き物であっても
当店にある沈没船からあがったものと、
無事に航海を経て日本の茶の道で生きたものとでは
桁がまったくことなります。
古い仏像を見るとき、
それはその表面的な姿を見ることだけではなく、
信仰の中で生きたことに敬意を払い、
それぞれの時代を生きた人々の願いを仏様を通してその想いによりそう・・・
日本屈指の古美術写真家の晩年の言葉です。
僕はそこに本質があると思っていまして
そういう気持ちがなければおそらく何も見えてきません。
なぜなら信仰心があるからこそ、超えられた壁がそこにあるからです。
その壁を超えたからこそ、真の美が宿るんです。
トクチャにしてもジーにしても
また珊瑚やトルコ石にしても、
そして少数民族の装飾品にしても、
信仰のなかで息づいてきたものは
ただ外見から判断する思考だけでは物の良さはいっこうに見えてきません。
ですから提供する側の人間は
当然、例えば仏教というものに迫る気持ちがなければなりませんし、
民俗文化も知らなければなりません。
いわゆるそれにいたった技術的なことや
見極めに通ずる約束事となるようようなことももちろんです。
お客様はプロではありません。
その道に生きる方々でもありません。
ですから道を知る者が、
筋を理解するものが、しっかり伝えなければ
お客様も品物もそれを生み出した人々もかわいそうということになる。
「もの」ではあるけれども「魂」もそこにはあるということ。
これを伝えることができなければ
どうもやっぱりつまらないことになってしまう。
このあたりを伝えきれるかが
この世界では最も大切なことだとつくづく思います。
人というのはお会いすることで印象が変わることがよくあります。
メールでは100回やりとりしても伝わらないことが
1度お会いするだけでよく伝わることがたくさんあります。
古物も同じです。
ネット上でいくら画像を見ていても、
伝わらないことはよくあります。
むしろ伝わらないものの方が多いのかもしれません。
けれども実物を目の前にしたとき、
絵だけで出来上がっていた脳内の姿とはまったく異なる印象を与えることがよくあります。
そしてこの「違い」こそが実は古の持つ魅力なのだと思います。
僕がよくお客様にお話をすることのひとつに、
「見た目は2割、背景に8割」 というのがあります。
その背景にこそ値段がついているんですという意味です。
この世界ではよく言われることです。
ここで言う背景とは言葉で説明できる歴史や技巧といった部分だけではなく、
先ほどお話したふわっとした何とも言い難い感覚的なものが多く含まれています。
そしてその魅力を知ることこそ、
この世界を長く楽しむ秘訣でもあるように感じます。
この模様が珍しい。
この年代のものが少ない。
もちろんそれも楽しみ方の一つだと思います。
けれども順番はあくまで先のお話が基本にあって、
それに加えてそうした個々の楽しみ方、
ということでないと失敗を繰り返してしまう気がいたします。
当店でご購入をされるお客様には・・・
少しご面倒だとは思いますが、
こうしたこともあわせてお伝えしたいと思っています。
いつまでたっても慣れることのない空の上から
地球の外側を丁寧に沿うようにしてオレンジ色の帯が見える。
山手線と同じようにもっと窓が大きかったら・・
そして・・この騒音と振動に包まれて一切抵抗できない空間でなかったら・・
もう少し・・人生を楽しむ事ができたのかもしれない・・・
いくつものことが重なって
極度の飛行機嫌いになったわけだけど
数百を数えるフライトを経験しても
ちっとも悟りを開くことができない・・(笑)
ただ・・全く変化がなかった訳ではなく・・
この世界に心底惚れ込んだ僕でさえも、
これが理由でこの仕事はもう無理かもしれないと諦めるほどの
状況から立ち直る事ができたのは・・(笑)
そうとうの進歩だったのかもしれない。
順風満帆ではなかった・・
むしろ苦悩の連続だった・・と・・
僕を追いかけたドキュメンタリーでもあれば
それを見た人は思うのかもしれない。
どん底かと思ったらそこから谷底に落っこちて
這い上がることを諦めかけたこともあったっけ・・(笑)
そんな時も・・
僕のそばにはいつもジーがいた。
必死で握りしめ・・
千年前の人々の・・
僕とは比べものにならない程の
苦悩を見守り続けてきたこのジーに光をもらいながら・・
ちょっとまともなとんぼ玉屋やチベットなんちゃら屋さん達が
この世界の人間なら誰でも知ってる専門書から引っ張ってきて
それらしいことを書いているのをたまに見るけど
僕はもっとジーは人間くさかったって思ってる。
ステイタスシンボルや金銭的価値というのはずっと後になってから出来上がってきた形で、
発生理由はもう少し違ったんじゃないのかな・・
だから・・・2アイが一番多いんだと思うよ・・・
エジプトの時代から見てもわかるように、
もっとドラマがあったと思うよ。
だって人間だよ。あの時代を生きてきた人間だよ。
基本的に当店は出土のジーは扱わないけど、
西アジアでミイラ化したご遺体に大事に添えられたジーを見てると
それだけの存在だったとはどうしても思えないんだよね。
少なくとも僕ならそれだけの理由でこれほどの数のご遺体に
こんなことはしないな。
数え切れぬ程の伝世ジーを見てきて感じるのは
その傷みの多さ。
その傷ひとつひとつにその時代を共に生きたジーの主達の
切実なまでの想いが伝わってくる気がする・・・
また一緒に・・・
行ってくれるね・・・・
当店の魅力は何でしょうか・・?
都内の一等地にあるわけでもなし、
かといって風光明媚なところにあるわけでもなし、
資金力があるわけでもなし、
店主が役者さんのように素敵なわけでもない・・・
?・・
そうそう。愛情は負けない。
品物に対する愛情。
でもそれはどこもそうおっしゃるでしょうから・・
一番は現地の仲間。
これは自信あります。
アジア各地に本当に大切な仲間がたくさんいます。
彼らが僕の財産。
草原で500頭ものヤクを放牧しているチベット人。
インド中を車で旅してるちょっと変わったインド人。
刺繍の腕はミャオ族でもトップクラスのミャオ族のお母さん。
偶然、知りあったり、
人から人へのつながりだったり・・
みんな元気かな・・
成せばなる・・
のかどうかはわかりませんが
創業前からずっと思い描いていた空間を
ついにオープンすることができました。
個人的に収集してきたアンティークや少数民族美術など数千点を扱う専門のフロア。
既存店舗奥に新店舗として完成・・(涙)
国内にはこれほどの種類を専門的に扱い、
すべて品を克明に説明できるところはほとんど無いと思います。
自分で言うのもなんですが・・
海外には非常に優れた骨董店はございますが
そうした所にも負けない品揃えだと思います。
特にチベット物と少数民族物には自信があります。
と・・いつにもまして自信過剰な感じで少し心配ですが
本当に心の底から好きなお客様に満足していただけるよう、
これからさらに発展していけるよう努力してまいります。
今日はずいぶん強気だなぁ・・・
よくお客様に言われるのですが
「好きなことを仕事にできるなんて本当に幸せですね」
その通りで本当に幸せな事だとつくづく思います。
才能がとびきりあるわけではないし、
お金があったわけでもない。
むしろ無くて大変だった・・
俳優さんみたいにファンがつくような容姿でもないし・・
唯一言えることはお客様に恵まれたこと。
そして現地の仲間にも恵まれたこと。
家族やその他の人々の理解もあったこと。
全ての偶然が重なって
なんとかここまでやってこれたと言う感じ。
だから秘訣なんてものはないし、
ノウハウもない。
あとひとつあった。
あんまり先のこと考えすぎないこと。
こうしてこの時代の日本に生まれただけでも奇跡みたいなものだし
夢にチャレンジできるだけでも本当に幸運。
僕が出会う現地の子供たちの多くは夢すら描けない子供たちがたくさん。
僕は彼らに何もしてあげられないけど
せめて自分自身の人生を精一杯生きることが
最低限の自分のできることなのかなといつも思う。
明日どうなるかはわからないけれど・・
できる限りのことをして
それでもダメならそれまでの自分なんだったとあきらめる。
だから中途半端だけにはならないようにしたい。
そして・・じさまになっても
続けられたらいい。
この世界に慣れてくると
業界人もお客様も
業界の嗜好に陥り
自身の嗜好に陥り
気が付けば普通の人になっていく姿を僕はよく見てきました。
当店に初めてお越しになるお客様は
最初はそういう方がほとんどなのかもしれません。
けれども僕はいつもそこに修正をかけてきました(笑)
面倒くさがられるのはわかっていても・・
僕は今まで・・
おそらく日本で一番といっても語弊がないんじゃないかなって思うくらい(笑)
この世界に関わりそのものを見続けご紹介してきました。
その数は圧倒的だと思います。
そして見てきている数も圧倒的だと思います。
おそらくこの先の数も・・・
もちろん、ジャンルによって、
もしくは色によって
その見え方や尺度は変わるとは思いますが
僕のやっている世界に関しては
間違いないのではないいかと思います。
そしてだからこそ気づく部分は多いんですね・・・
陥る訳も陥る思考も
そして陥ってしまったその先に見える世界も・・・
優劣は確かにあります。
そして値がそれを評価していきます。
けれどもいずれも生きてきたものでもあります。
いずれも求められ生きてきたものたちです。
慣れてくると・・
敢えて使いますが平凡なものや傷みの大きなもの、
もしくはこの業界的にはそうでもないものに対し、
人は冷めた眼差しをむけてしまいます。
お気持ちはとてもよくわかりますが
そのはじかれたものたちも
それを生み出し守り続けてきた人々によって
共に生きてきたものなんですね・・・
この世界を見つめていく上で
僕がいつもまっさきにお伝えしてきたこと
それはものを見る上での順序です。
まず、少数民族の人たちを理解し尊重し尊敬する心をもつこと。
そしてその次にはじめてものを選択していくという心が生じていく。
こっかを有さず、
多数派によって常に翻弄され続けてきた人々に対し
我々多数派がまず先に成すことは
順序への緊張感です。
他所でも散々書いてきましたが
ここを多数派が間違い続けてきたから
少数民族の人々は
苦しみ、絶望し、場合によっては実力行使へと向かいます。
この歴史がずっとずっと繰り返されてきました。
人はそれでも繰り返します・・・
人間とはそういう生き物なんでしょう・・・
けれども、
直接触れている我々がそれでは
もう救いようがありません・・・
僕たちは
そのことを想い、
深く想像し、
こうしたものをみつめていくことが大事かと思います。
そして・・
そう会った時・・・
実ははじめて
見える世界があります。
はじかれたもののなかに
実は光るものがある。
はじかれたもののなかに
実は答えがかくされているものがある。
はじかれたもののなかに
本質をみることがある。
そこに気づくには・・
途方もなくお金も時間もかかるのかもしれません・・・
だから・・
誰よりもわかっているから・・
僕のもう一つの仕事は
そこをショートカットさせてあげること。
そして境地を見定めてもらうこと・・・
余計なお世話なのか
それとも愛情なのか・・・(笑)
答えはこの店の品と歴史が
既に出しているような気もします・・・